ちんポ

ちんこくんのポッドキャスト略してちんポ

2年前のオリンピックのほにゃらら圭吾の騒動のときに書いたけどすぐ下書きに戻したやつ

某ミュージシャンが燃えている。でまぁその件の内容は置いといてそのことで「音楽と人間性を分離して考えることができないから聴けない」と嘆いてる人を結構見かける。この意見は今回炎上する前から結構言ってる人を見かけててなんなら他のミュージシャンに対しても過去の悪業や犯罪歴や偏った政治的な思想やはたまた普通に性格が合わないってとこでこの苦悩に悩まされた人多いと思う。それに対しての僕の考え方というか仕組みみたいなことを書いていこうと思う。

簡単に言うと高校入試のテストの点数と内申点みたいなものだと捉えている。テストの点数が音楽の良さで内申点はほぼそのままの意味、まぁ人間性みたいなとこ。テストの点数がどれだけ良くても内申点がボロボロなら不合格にしてもいいし内申点がボロボロでもテストがつきぬけて良ければ合格させてもいい。テストの点数と内申点の重要度の比率をどうするかは高校側の自由だ。それと同じで音楽の点数がどれだけ良くても人間性ががボロボロだったら受け入れなくていいし人間性がボロボロでも音楽が良ければ好きになってもいい。まぁさすがにここまで極端なことはないだろうけど、テストの点数と内申点の重要度の比率はいろんな高校や企業に千差万別であるように音楽を好きになる場合その比率は自分の自由だと思うんだよね。

結論を言うと「音楽と人間性を分離して考えることができないから聴けない」と言ってる人たちは実はもうすでに音楽と人間性を分けて考えることはできていると思うんだ。「音楽は良いが人間性がクソだから聴かない」というのはつまり「音楽は評価するが人間性は評価できない」と分離して評価できているということだ。分離して評価した上で聴かないという選択をとっているにすぎない。音楽と人間性を分けて考えられない人は

「こんなクソ人間が作る音楽だからクソな音楽だ」

「こんなクソ音楽作る人だからクソ人間だ」

「こんな素晴らしい音楽を作れる人だから人間性も素晴らしい」

「こんな素晴らしい人間だから音楽も素晴らしい」

などなど音楽の評価と人間性の評価をイコールにしてしまうことだと思うんだよね。

 

 

(…ここで唐突に終わってる。なんか付け加えたいこととか色々あるし、続きというか補足みたいなの今度書こうかな)