ちんポ

ちんこくんのポッドキャスト略してちんポ

がんばれ黒い羊 僕があずにゃんになった理由

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まぁタイトルはこれのパロということでね。

先日大晦日のカウントダウンライブで久しぶりに色んな人に会ったのだが(お会いした方いろいろあざした)

「なんであずにゃんになったの?」って質問をやたらいろんな人に言われた。そんときは適当に答えたけど、それの回答って特に深い理由もない割に簡潔に説明すると長くなるのでここに記しとこうと思ってこのブログを書いた。

 

まず名前を変えた動機、それは元々黒い羊って名前が特に気に入ってなくて昔のフォロワーなら知ってるあのリーゼントバスターくんのアイコンも飽きててなんか心機一転したいなぁとはだいぶ前から思ってたんだよね。

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(懐いね)

黒い羊って名前は19歳の時に例のpodcastで送ったメールが読まれてそのペンネームなんだけど、そのメール書いたときのことなんかめちゃめちゃ覚えてて就職活動やだよーと思いながら専門学校の帰りの博多駅から家へ帰る電車の中で書いたんだよね。んでそんときPermanent black sheepがすごい好きでそれ聴きながらメール書いてたからなんとなくで黒い羊ってペンネームにしたんだ。でも今となってはなんか安直すぎてあんま好きじゃなくなっちゃったんだよ。だって日本語にしただけやん。

 

名前変えた動機はそんな感じ。

ではなぜ「あずにゃん」という名前にしたのか。まず大前提として「なんとなく」というのがある。なんかノリというか俺みたいなやつがあずにゃん名乗ったらウケるやろっていう、いやこういうことわざわざ書くのダサいんだけども。まぁそういう浅はかな理由が大部分なんでね、特に深い意味もなく今から書くことも感覚的に後付けのような感覚です。

当時けいおんを全話見返してて小柄なJKがムスタング掻き鳴らすのかっけーとは元々思っていて、そんな小柄なJKがSGというギターを持つシーンがあるんすよね。

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当時僕はゆら帝をはじめとするガレージサイケバンドにすごいハマってて、んでなぜかガレージサイケバンドのギタリストのほとんどがSGを使ってるんだよね。(ゆら帝、White heaven、Blue Cheer等) そんな渋いギターであるSGをあずにゃんが持ってるシーンがすごく俺の中では映えててアイコンにしたいなと思ったんだよね。あと俺の好きな音楽の考察するような人ってなんかアニメアイコンの人多いんだよな。それへの憧れみたいなのもあるのかもしれん。

そんな感じです。ちなみに今のアイコンはそのあずにゃんがSGを持ってるシーンではあるものの、少しコラってて最近好きなvaporwaveというジャンルの(厳密に言えばpost internetかな?)telepathテレパシー能力者というアーティストのアンドロメダというアルバムのパロというか合成です。

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ま、特に深い理由もなくこの名前も数年したらだっせーってなるかもしれんな。

あとリアルで初対面の人に会ったときに「どうもあずにゃんです」って言うのバカみたいなんだけどどうしたらいい?

君たちはどう生きるか殴り書き感想とCornelius新譜とうんこちゃん

君たちはどう生きるかを見てきた。そんなにジブリ作品に熱心な方ではなく宮崎作品は半数ぐらいしか見てない。しかし今回は全くの詳細を伏せての公開ということで こんな体験はなかなかできない!と思って公開当日朝に時間あったから見に行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ここからネタバレするっちゃする】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個人的にはめちゃくちゃ面白かった。さっきも書いたが別にジブリ作品そこまで好きでも嫌いでもないって感じなんだけどこれは俺好みな感じだった。めちゃくちゃ複雑で考察いろいろできるんだろうけど、どちらかというと自由度が高く自分の好きなように解釈ができるところが俺が好きなんだろうなと思った。音楽とかもそうだけど説明的でない音楽とかのが好きで自分で勝手な解釈したり自分に勝手に当て嵌めたりするのが割と好きなんだよね。Corneliusの新譜を前日ぐらいにしっかり聴いて例の騒動と勝手に照らし合わせたり流れてる音楽の元ネタや文脈みたいなところはほとんどわかんないんだけどなんか聴いた印象だけで十分心地よいみたいな、そんな音楽を聴く感覚と同じ感覚をこの映画にも感じた。よく「宮崎駿はこのシーンにこんなメッセージを込めている!」みたいな考察あるし別にそれはそれですごく面白いと思うんだけど、ただそれって整合性がないと断定はできないし答えを探す作業だと思うんだよね。今作はそれしなくていいなというかできないなと思った。自分なりの勝手な解釈でいいし、むしろ解釈というよりは印象のが大事なんじゃないかなと思った。なんなら宮崎駿も試写会で「よく分からなかったですよね、自分でも分からないです」みたいなこと言ったらしいし本人が分かんないなら答えってないんだよね。とにかくその解釈の自由度の高すぎてなんとなくの印象だけで楽しめるところがすごい好きだったな。

ただ絵で感動するみたいなのはあんまなかった気がする。過去作で「うおーすげー綺麗!」「かっけー!」みたいな絵としての感動があったと思うけど今作はそれはなかった。あとストーリーが面白いか?と言われるとそれも過去作のが面白いかなと思う。というかストーリーにハラハラドキドキとかがほとんどなく単調なんだよな。まぁただストーリーに関しては別に過去のジブリ作品が特段に面白いと思ったことは俺はそんなにないので別に俺はこんな感じのストーリーで全然いいなぁと思っちゃった。

んでお前が受けたなんとなくの印象って何???って話なんだけど、なんかさっきも書いた考察系の人が言いそうな「このキャラはプロデューサーの鈴木敏夫で〜」みたいなのもなんとなくあったんだけど、俺が1番グサグサきてたのは主人公とその周りの人間や鳥たちの関係でなんか俺の家族に対する思い、特に母親かな、それがすごい重なるシーンがあってめちゃくちゃ感動した。というか共感したに近いのかもしれん。その葛藤わかるぞ!みたいな。なんか映画見る前にうんこちゃんの母親が亡くなったときとかの話の切り抜きをなんとなく見ててそれに引っ張られたのかもしれんな。

なんか正直見ながら何回か泣いたけどブログ書きながら思ったがなんで泣いたかあんま覚えてないや。またに見に行こう。

 

2年前のオリンピックのほにゃらら圭吾の騒動のときに書いたけどすぐ下書きに戻したやつ

某ミュージシャンが燃えている。でまぁその件の内容は置いといてそのことで「音楽と人間性を分離して考えることができないから聴けない」と嘆いてる人を結構見かける。この意見は今回炎上する前から結構言ってる人を見かけててなんなら他のミュージシャンに対しても過去の悪業や犯罪歴や偏った政治的な思想やはたまた普通に性格が合わないってとこでこの苦悩に悩まされた人多いと思う。それに対しての僕の考え方というか仕組みみたいなことを書いていこうと思う。

簡単に言うと高校入試のテストの点数と内申点みたいなものだと捉えている。テストの点数が音楽の良さで内申点はほぼそのままの意味、まぁ人間性みたいなとこ。テストの点数がどれだけ良くても内申点がボロボロなら不合格にしてもいいし内申点がボロボロでもテストがつきぬけて良ければ合格させてもいい。テストの点数と内申点の重要度の比率をどうするかは高校側の自由だ。それと同じで音楽の点数がどれだけ良くても人間性ががボロボロだったら受け入れなくていいし人間性がボロボロでも音楽が良ければ好きになってもいい。まぁさすがにここまで極端なことはないだろうけど、テストの点数と内申点の重要度の比率はいろんな高校や企業に千差万別であるように音楽を好きになる場合その比率は自分の自由だと思うんだよね。

結論を言うと「音楽と人間性を分離して考えることができないから聴けない」と言ってる人たちは実はもうすでに音楽と人間性を分けて考えることはできていると思うんだ。「音楽は良いが人間性がクソだから聴かない」というのはつまり「音楽は評価するが人間性は評価できない」と分離して評価できているということだ。分離して評価した上で聴かないという選択をとっているにすぎない。音楽と人間性を分けて考えられない人は

「こんなクソ人間が作る音楽だからクソな音楽だ」

「こんなクソ音楽作る人だからクソ人間だ」

「こんな素晴らしい音楽を作れる人だから人間性も素晴らしい」

「こんな素晴らしい人間だから音楽も素晴らしい」

などなど音楽の評価と人間性の評価をイコールにしてしまうことだと思うんだよね。

 

 

(…ここで唐突に終わってる。なんか付け加えたいこととか色々あるし、続きというか補足みたいなの今度書こうかな)

夢とその視点の話

よく夢を見るときは三人称視点になるって人を聞くんだが俺はそれになったことない。そして考えてみたら俺は考え事とか妄想をするとき必ず一人称視点でやってることに気づいた。三人称視点で頭の中でシュミレーションするのがあんま上手くできない。
よく寝るときに妄想するんだけど、妄想しながら眠りにつくとき俺が妄想してたものがそのまま夢になっていき自分の妄想が自動再生されてるような感じのときがある。そのとき俺が妄想するときは一人称視点なので夢も一人称視点である。
つまり想像や妄想をその人が自分の意思で作った脳内映像と捉えると、夢とはその人の意思とは関係なく脳にあるAIのようなもので作った脳内映像と言える。ただ脳のAIを学習させるのは自分の意思で考えたことや経験である。例えば僕のように三人称で想像や妄想したこともない人間は脳のAIが三人称視点の脳内映像を作ることはできるはずないのだ。
ということは夢で三人称視点になる人は物事を想像したり妄想したりする時も三人称視点でやってるという人が多いのではないか。どういう人間が三人称視点でものを考えるのかどういう人間が一人称でしかものを考えられないのかということまではよく分からないが、なんとなく客観的に物事を見たり見られることを意識するのが強い人間が三人称視点って感じがなんとなくする。

好きな歌詞

止まってる時計だって一日に二度 確かな時間を差せるのに、半端に狂っちゃった僕らずっと居場所がない黄昏てんだ。キツネの森で握手紛れ込んだ晩餐会、嘘を紛らわすシロップが目立って、変に甘ったるいんだ飲み込んだ振りも限界。その味は甘くてクリーミィで、こんな素晴らしいキャンディーをもらえる私は、 きっと特別な存在なのだと感じました。 今では、私がおじいいちゃん。孫にあげるのはもちろんヴェルタースオリジナル。 なぜなら、彼もまた、特別な存在だからです。

自販機おじさん古文

考へけり
おのづから我が体が自動販売機ならば…って
舞ちんが勢ひなきは、舞ちんがいと恋しきファンタなどの炭酸飲料をプレゼントするぞ
飲み物は俺のおちんちこよりいでくるみしぞ
炭酸まぐはひ、今めかしかし
しゅよしゅよー
舞ちんが生理にいられたるは、牛乳をプレゼントするぞ
加爾叟母不足を解消なりぃ
もとより牛乳もおちんちこより放てばぞ
舞ちんが我とえにける婚のせまほしきは、小岩井の果汁をプレゼントするぞ
小岩井=こいわひ=子祝いなればぞ
なーんちゃっててへ
えにける婚せまほしきは、小岩井ならで精子果汁ぞかしあやまちにけり

舞ちんばかりの自動販売機になるべしや

formula / 石原洋

このアルバムは2020年2月にリリースされたアルバムでここ数年で聴いたアルバムの中で一番好きなアルバムだと断言できるぐらい好きなアルバムだ。まず石原洋さんという方の説明から。ゆらゆら帝国やOGRE YOU ASHOLEなどなどのサウンドプロデューサーをやってる人で石原さん自身の活動としては過去にWhite heaven The Starsで活動してました。White heavenは90年代、The Starsは00年代に主に活動していたみたいです。今作はなんとソロアルバムとしては23年ぶりのアルバムになる。

内容としては20分ぐらいの曲が2トラック収録されている。2トラックだがプログレ的な長い曲が2曲入っているのではなく1トラックに4曲ぐらいが入っている。ではその計8曲を楽しむのかというとそれもちょっと違う。いやそういう聴き方でも全然良いのだけどなにせ曲が聴きづらい。なぜなら曲と同時に街の喧騒や雑踏が環境音として流れているからだ。街の人の話し声、食事の音、駅の音、交差点の音等いろいろな街の音が曲の背後ではなくなんと前面に流れている。むしろ背後に流れているのは曲の方で曲が喧騒からぼんやり現れてはふわっと消えていく。そのミックス具合がまさに絶妙で前面で雑踏や喧騒が流れることで背後にある音楽を俯瞰的に聴けるようになっている。本来は音楽と自分という関係において、例えば歌詞やメロディやギターの響き方など音楽の中身を楽しむのが普通である。その音楽が街で流れていたり街中でイヤホンで音楽を聴いたときに初めて音楽は街のBGMと化す。自分と音楽という関係ではなく街と音楽という関係を第三者として俯瞰的に聴くことができる。そのとき音楽の緻密さは薄れてしまう代わりに音楽にある印象や雰囲気がなめらかに現れ喧騒に溶けこんむことができている。この街のBGMと化した状態のまま提供されているのがこのアルバムだと思う。また、このアルバムを街中で聴くとイヤホンから流れている雑踏が本物の雑踏のように錯覚し街に音楽が漂ってるような感覚になり体験としても面白かった。

石原さんは今作のテーマを「遠さ」だと語っている。質の悪いブートレグのライブ盤なんかだと観客の声などのガヤガヤした音の遠くでライブの音が鳴っているみたいなものがよくある。"そういう感じ"がなんか良いなと思っていてそれが今作を作るきっかけになったそう。聴いてみて石原さんが仰るその"そういう感じ"というものがよく分かった。ブートレグの音源と石原さんは仰っていたが僕ら世代だとスマホかなんかでライブを録音したものをYouTubeやニコニコに違法にアップロードされたものなどが馴染みあると思う。ああいう音の悪い音源を聴くあの感じ、あの感じが「遠さ」として確かにあるなとすごく感じた。本来それは心地良くないはずのものなのだがそれの楽しみ方や新しい音楽の聴き方みたいなものを提示してもらった気がした。

そして今作を聴いてもう一つ感じたのはこの街や生活の雑踏はもう今ではただの雑踏には聴こえないということだ。特にコロナ禍で家に閉じ込められて街がゴーストタウンになっている時、この雑踏を聴くだけで心に来るものがあった。僕らが戻りたくて仕方ないコロナ以前の街や生活の空気感がこのアルバムに閉じ込められていてそれを憂い羨む僕らの怨念のようなものがメロウな音楽に化けて街に彷徨ってるようなそんな感覚を僕は感じた。

冒頭でも書いたのだがこのアルバムは2020年の2月にリリースされている。つまりまだコロナが蔓延する前のリリースなんですね。なんならこのアルバムの構想はそのさらに2年前からあったそうで。ほんとただの偶然ではあるが図らずともこんな現在の状況にマッチする音楽になっていた。

この感覚の体験ができるのはある意味コロナ禍に生きる僕らの特権だと思います。LPは現在中古でしかありませんがCDは通販などで普通に買えますしBandcampでダウンロードもできます。僕がここ最近の1番推してる音楽です。是非是非聴いてみてください。

あと最後におまけというかただの自慢なんですがこのアルバム好きすぎてCD1枚とLP2枚持ってます✌️

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YouTube https://youtu.be/S_1clAJieUc

bandcamp https://youishihara.bandcamp.com/album/formula-deluxe-edition